前回は地震の後に引き続いて起きた出来事について書いたが、今回はさらにその後の2016年10月から12月に起こった出来事を記録する。(地震では家屋や建造物の被害に注目が集まるが、その影響からその後に身に降りかかる災難もまた未体験で想像を超えていた。私事ながら、あまり報道されていない面もあるので、皆様の参考になればと思う)
父の容体は、日を追うごとに悪くなっていきました。そしてある日、救急車で運ばれ入院する事態になりました。いろいろな事が影響しての肺炎でした。89歳という年齢で体力も落ちているので、もう前のように回復するのはむずかしいのか、という気持ちになりました。ならば余命があるうちに、故郷に戻してあげたいと思いました。故郷に戻れば、その環境が回復に力を貸してくれるかもしれない、という思いもありました。
帰郷させるには、いくつかクリアーしなければならないことがありました。1つは、母の治療が落ち着かなければならないこと。もう1つは、父の熊本での受け入れ先を確保することでした。
11月の中旬に、母の治療がいい方向に進んでいるという嬉しい知らせがありました。まだ治療は必要なものの、熊本の病院への転院は可能との見解が出たのです。
父の受け入れ施設については、熊本のケアマネージャーさんを頼り、病院やリハビリ施設付きの老健を見つけることができました。そこでは施設を見学させてもらえ、親身になって相談に乗っていただき、受け入れを了承してもらうことができました。
岐阜から熊本までの移送は、岐阜のケアマネージャーさんが綿密な計画を練ってくれました。空路、新幹線なども検討した結果、移動時の安全を優先し、治療設備の付いた私設救急車で陸路を行くことになりました。
帰郷後の生活は、7月にもらえていた仮設住宅を使う予定です。当面は、父は病院なので、母が一人で住むことになります。
移送の手はずを整えた矢先、深夜の突然の電話で起こされました。姉からの電話で、父が危篤との連絡。3時くらいだったのですが、東京から岐阜までは車で4時間くらいの距離。着替えだけして、車に飛び乗りました。
間に合ってくれ、と思いながら走ったのですが、横浜あたりだったでしょうか、母から「いま亡くなった」との電話が入りました。
病院に着いたのは朝の7時半でした。病室に入ると、母が一人泣いていました。間に合わなかった。父の手を握るとまだ温もりがありました。私も、感謝と別れを告げました。姉は帰郷の準備のため熊本に戻っていて、死に目には会えませんでした。
「葬儀はどうされますか?」、病院の看護婦さんに尋ねられました。帰郷の算段をやっていた最中で、そんなことは考えてもいませんでした。気持ちの整理もつかないまま、葬儀の手配をする必要に迫られました。
と言っても、見知らぬ土地での葬儀。まったく勝手がわかりません。それに、葬儀は父の生まれ故郷である熊本でしてあげたいという思いがよぎりました。幸い、甥は葬儀関係の仕事をしているので電話で相談に乗ってもらい、骨葬というのがあることを知りました。骨葬とは昔からある儀式で、告別式の前に火葬をする儀式だそうです。岐阜で骨葬を行い、告別式は熊本でやることにしました。
岐阜の葬儀屋さんは姪が探してくれました。その葬儀屋さんは骨葬のこともご存知で、その他のいろいろなアドバイスもいただけました。
葬儀屋さんの車が、すぐ病院の遺体を引き取りにきてくれたのですが、そのとき感激したことがありました。父の遺体が病院を出るとき、それまで父のお世話をしてくださった担当のお医者さんや看護婦さんたちが勢揃いで見送ってくれたのです。拝礼をされ、涙を流して最後まで見送ってくださったのです。母と二人で、心から感謝しました。
火葬は死後24時間が経たないとできないので、その夜は葬儀屋さんの控え室で、父の亡骸と共に親子3人で寝ました。
翌朝、骨葬を行いました。姪一家と甥が来てくれて、滞りなく行うことができました。
遺骨は、故郷まで私が車で運ぶことにしました。熊本での告別式の手配は、帰郷の準備のために戻っていた姉がしてくれました。住み慣れた故郷なので、知り合いがいろいろ助けてくれたそうです。
お通やは骨葬の次の日になったので、準備の時間はありません。手元で分かる限りの人に連絡はしたのですが、最低限の準備しかできませんでした。それにも関わらず、父の旧友や親戚も来てくれたのはありがたいことでした。
そのとき一番助かったのが、「葬式組」という日本に昔からある相互互助の制度でした。組の当番の方に連絡しただけで何も具体的なお願いをしていないのに、三々五々に集まってくれて、式の受付から祝儀の計算まで葬儀の一連の対応をしていただいたのです。この制度のおかげで無事、葬儀を行うことができました。
葬儀の次は納骨の手配をしなければなりません。しかし、うちがお世話になっていた納骨堂は、前に報告したように全壊で使える状況ではありません。それどころか、ご先祖さまの遺骨も取り出せない状況になっていました。
選択肢はなく、遺骨は仮設住宅に置くことになりました。葬儀関係の仕事をしている甥が、ダンボール仕立てながら「立派な」仏壇を作ってくれました。
納骨堂の再建はかなりの時間がかかると思われたので、うちが檀家になっているお寺に相談し、空きができたらそちらに納骨してもらうお願いをしておきました。ちなみに、益城町のお寺の多くは被災が激しかったのですが、うちのお寺は幸い軽傷で済んでいました。